歴史放浪 '16 特別編
※以下は、私見です。
…埼玉県川越市にある喜多院は、正式には『星野山無量寿寺喜多院』という。
無量寿寺には、『北院』、『中院』、『南院(現存せず)』があり、慶長4年(1599)に天海が住職になった時『喜多院』と改められた。
仙波東照宮は、喜多院と中院の間にある。
何故、ここに東照宮があるのか。
家康が没した翌年、1617年(元和3年)、遺言により久能山から日光へ改葬する途中喜多院に
四日間留まり、天台宗の僧、天海大僧正が導師となって大法要を執り行った。
そうした経緯から喜多院境内に東照宮が造営された。
現在の社殿は、寛永15年の川越大火で焼失した後に再建されたものだ。
さて、日光、仙波、世良田東照宮にはそれぞれに幾つかの共通点がある。
1.それぞれの東照宮は、天海が住職を務めた寺院の隣に建てられている。
日光→輪王寺、仙波→喜多院、世良田→長楽寺
2.それぞれの寺院は、東照宮の右側に隣接している。
輪王寺は東照宮を北に見て東側、喜多院と長楽寺は東照宮を西に見て北側。
仙波の場合、現在地に建立するために中院を南側に移動させている。
3.輪王寺は天台宗門跡、喜多院は関東天台宗の本山、長楽寺は天海が住職になってから天台宗に改宗。
天台宗は『神仏習合』宗派で、天海が唱えた『山王一実神道』により、家康は『東照大権現』
の号で祀られる。これにより、寺院の境内に東照宮を祀る理由にもなる。現在は神仏分離
によって、管轄が異なる。
日光・仙波・久能山で三大東照宮とするのは、実際に家康の遺骸を安置していたという点で共通する要素があるが、日光・久能山・世良田で三大東照宮とした場合、世良田が徳川氏の発祥地という、徳川家にとって重要な地であるからという理由が考えられる。
しかし、日光と久能山が遺骸が埋葬された地という共通点とは違和感がある。
日光と久能山には家康の廟所がある。
世良田に廟所は無いが、家康を松平から徳川に“復姓”した初代と見做すと、三社の共通点が成立するのではないか。
歴史放浪で紹介したように、長楽寺には徳川氏の『初代』、徳川義季累代の墓所がある。
義季は、記録の上では『世良田義季』として登場するものもあり、その場合、徳川の初出は義季から徳川郷を分け与えられた息子の『徳川頼氏』である。
いずれにしろ、この地に東照宮を建立する事は、徳川家が新田一族の出身である事を強調するためにも必要不可欠であり、天海がその点に眼をつけたのも頷けると思う。
ここまで書いたら、やはり久能山にも行かねばならないだろう。
天海や徳川幕府の『仕掛け』を調べるには、必要不可欠だと思うのだ…。
次回は、歴史放浪最終回…。